徳川家が武田をいたぶっている一方で、北条家が敗戦を繰りかえしており、関東の大部分を失いそうです。
というわけで、徳川の石高は増えますが、武田の石高は変わらず。
こんなんなら、北条を従属させずに、武田と北条を不戦のままで徳川単体で攻撃したほうがよかったかもしれません。
まあ愚痴っているうちに、甲斐を制圧、信濃をほとんど攻略して、家康本軍は上野に入ります。
そして、信濃の残りと越後方面には軍団を向かわせます。
軍団は兵を効果的に使えないため、しばらくは、占領地の防衛目的でがんばってもらいましょう。その隙に家康は関東を攻略します。
侵略すること火の如し 関東もすぐに平定することができました。
家康「これが、関東でしゅか。随分田舎ぶぁい」
正親「三河武士の質実剛健さに合いまするな」
この頃の関東は田舎です。湿地帯のような沼地も多く、家康が幕府を開いたことで次第に開発されていきました。豊臣の天下が続いたのならば、今の大阪が超大都市で、東京は中規模都市だったかもしれませんね。
■1566年12月
松平を捨てて、とうとう徳川を名乗りました。

武田は関東と南陸奥(福島)と越後に直轄地が多いので、もう少ししたら従属と臣従大名が離反するでしょう。ここで、越前の朝倉を従属化させ、武田をさらに苦しめることにしました。
■1568年3月

特に書くことがないほど、すんなりと進みます。
武田の配下はほとんど独立してしまいました。もはや作業。
■1568年10月
武田の降伏を受け入れ、朝倉を臣従させたところです。大友に押されていた毛利も配下にし、ほとんどの地域を手に入れました。ここまできたらオートでも十分ですが。一応最後までやります。
■再び大友戦へ
といっても、前ほど苦労はしません。日本海側と瀬戸内海側、どちらからも攻められます。
大友に従属していた、四国の長宗我部や一条が早々に裏切ってきました。
このように裏切りが続出したため、大友はまともに徳川とは戦えず、徳川が九州に入ったところで、大友の降伏をゆるし、後は外交で屈服させ、九州統一へ。
■最後の東北地方
すべて外交で終わらせました。九州から移動するのがめんどくさいので・・・
ということでラストの画像です。無事に徳川家で天下統一することができました。めでたしめでたし。

最後は駆け足で終わりにしました。そんなに難しいところはないので。
ダラダラとかきましたが、次は弱小大名攻略のポイントみたいなものをまとめてみます。